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  • 執筆者の写真SOH

古代教会「主の晩餐」の雰囲気はパーティー系?|フストゴンザレスの本より




この本、私はまだ読んでる途中なのだけど、主の晩餐について面白いことが書いてあったのでシェアします。


以下、「キリスト教史(上巻)」p109)からの引用


 

古代教会は最初から、週の初めの日に共に集まってパン裂きの儀式を守っていた。週の初めの日に集まったのは、この日がキリストの復活の日であったからである。したがって、礼拝の主な目的は、信仰者を悔い改めへと招くことではなく、罪の深さを思い知らせるためでもなく、イエスの復活とそれによって確証された約束を喜び祝うことにあった。…このように初期の聖餐は、キリストの受難の日ではなく、復活の日に焦点が当てられていた。新しい現実の夜が開けたのであり、キリスト教徒はこの夜明けが来たことと、その夜明けにあずかる者とされたことを祝うために集まったのであった。教会はその初めから、また歴史のほとんどすべてを通して、聖餐を、礼拝の中の最も重要な儀式として守っていきた。プロテスタント諸教会の中で、聖餐よりも説教に強調が置かれるようになったのは比較的最近のことである。…初期の聖餐の最大の特徴は、それが祝祭であったということである。聖餐を支配していた雰囲気は、悲しみと悔い改めではなく、喜びと感謝であった。



 


主の晩餐って


厳粛な感じ…


というものだと思っていました。


ゴンザレスによれば、初代教会はそうではなく、喜びと感謝の雰囲気に満ちた「祝祭」(パーティー)だったということです。


(使徒2:46〜47)


今ってもしかすると、初期の教会とは違い、復活の日よりも受難の日にフォーカスされているのかもしれません。


もちろん、どちらも大事なことなのですが…


(先日書いた自分の記事も「罪」にフォーカスしている)


ロイドジョンズの説教を本で読んでいても、復活の希望についてよりも「罪の自覚」についてのスペースが結構多い気がします。


教会は「赦された罪人の集まり」とはよく聞くけれど、「栄光のからだに復活させられる選ばれし者の集団」とはあまり聞きません。


消極的にいうか、積極的にいうか、の違いなのかもしれませんが、未信者にとって魅力的な共同体はどういう風に表現されるだろうか。聖書はなんといっているだろうか。まだ模索中…



 
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