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クリスチャンが結婚について聖書から考えるのにぴったりな水色の本

ジャスティンビーバーも読んだらしい?!ティモシー・ケラー(ニューヨークの牧師)の著書「結婚の意味ーわかりあえない2人のためにー」を読みました。この記事はその本を読んだ時に書いたブックレポートを貼り付けたものです。





本について


書名:「結婚の意味ーわかりあえない2人のためにー」  

著者名:ティモシー・ケラー

出版社:いのちのことば社 

出版年:2015年



本書の目的「既婚者にも独身者にも、聖書による結婚とは何なのか、そのビジョンを示すことを第一の目的としています。」(プロローグより)


第1章「結婚の秘密」



ティモシーケラーはエペソの5章31~32節『「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。』から「結婚の秘密」を説明します。


ティモシーは「結婚の秘密」を明らかにするにあたって、現代人の結婚に対する考え方が壊れている現状を考察します。結婚への悲観主義(誰でも幸せな結婚ができるとは限らないし、結婚できたとしても、その先に待っているのはセックスレスな仮面夫婦ではないか、という考え)幸せな結婚には結婚前に同棲が必要であるという考え、自己実現のための結婚、ティモシーは現代文化に見られるこれらの考えの前提が根本的に間違っていると、結婚に関する調査結果などを用いて、説得力のある仕方でその間違いを指摘しています。そしてティモシーは「それを解決できるのが聖書だ!」と、聖書が教える偉大な「結婚の秘密」をエペソ5章から解説します。


パウロがエペソの5章32節で用いたギリシャ語「ミュステーリオン」は語彙の幅があり、「秘密」という意味でも用いられます。ティモシーが本章のタイトルを「結婚の秘密」としたのはそのためです。パウロは32節で「この奥義(秘密)は偉大です。」と言ってすぐに「私は、キリストと教会を指して言っているのです。」という風に、25節の言葉を思い起こさせます。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(エペソ3章25節)。つまり、「秘密」とは、結婚それ自体にはないのです。夫が妻のためにすべきことは、そもそもイエスが私たちと一つになるためにしてくれたことなのだ、というメッセージなのです。神の子イエスは、父なる神と対等な立場にも関わらず、自身の栄光を手放し、私たちと同じ人間になられました(ピリピ2:5以下)。しかしそれだけでなく、すすんで十字架にかかり、私たちの罪の代価を支払ったのです。それは、私たちがイエスとつながり(ローマ6:5)、彼に似るものとなるためでした。(Ⅱペテロ1:4)。イエスは自身の栄光と力を手放して、しもべとなりました。自分の利益を捨て、逆に私たちの必要と利益に目を向けました(ローマ15:1~3)イエスの私たちに対する犠牲的な奉仕は、私たちとイエスとの間に深い一致をもたらしました。そして、これこそ、結婚を理解するためだけでなく、結婚生活を生きるための唯一の鍵だ、とパウロは言っているのです。


私たちは、伝統的結婚観、現代的結婚観のどちらもが迫る二者一択的発想にノーというべきであるとティモシーは言います。結婚の目的とは、家族の利益のために自分の利益を否定することでしょうか。それとも、自己実現のために自分の利益を押し通すことでしょうか。キリスト教では、自己実現と自己犠牲のどちらかを選ばせるのではなく、むしろ、相互の自己犠牲によって、相互の自己実現を目指します。イエスは、自分自身の利益を手放し、私たちを救い、私たちを神のものとするために死んだのです。だとしたら、次は私たちが自分を手放し、自分の自己中心性に死ぬ番ではないでしょうか。それは、まず私たちが悔い改め福音を信じる時に起こり、それから、イエスの生き方に従っていく日常生活の中で実現していきます。結婚を通して、福音の奥義が明らかになります。結婚は、福音によって、私たちの心の内側から、私たちの人生が土台からつくりかえられるための、一つの手段なのです。大きな痛みが伴いつつも、なお素晴らしいと言えるのは、結婚が福音を反映するからです。つまり、その福音とは、私たちは自分が思ってきた以上に罪深くかけだらけであること、同時に、これまで自分が信じてきた以上にイエスにあって愛され、受け入れられている存在だということ、です。


以上がティモシーが聖書から見出した「結婚の秘密」の要約です。



第2章「結婚を育てる力」



ティモシーケラーは本章で、エペソ5章21節「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」から「結婚を育てる力」を明らかにします。神しか満たすことのできない空虚を「結婚生活で満たそう」と期待することはできません。御霊に満たされてこそ、結婚生活が喜びに満ちたものとなるのです。


「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」は前半後半それぞれ独立した文章として考えられがちですが、原文では、パウロがそれまでにいくつか挙げてきた『御霊に満たされた』人の特徴の最後に挙げられているのが、この21節です。つまり、エペソ5章にある結婚の勧めは「御霊に満たされている」ことが前提であるということです。そこからわかることが2つある、とティモシーは言います。一つは夫婦それぞれが人生における大きな疑問、「自分がキリストにあって何者であるのか」既に知っているということです。もちろん、いつも神に従い、喜びの人生を生きられる人はいません。だからこそ、パウロは18節で「御霊に満たされ続けなさい」と文字通り命令形で熱心な勧めで始めたのです。そしてもう一つは、夫婦の魂を走り続けさせるために必要なのは、イエスの愛を確信して心を尽くして神を礼拝することであって、神だけが満たせる空虚が夫婦にはあるのだ、ということを夫婦それぞれが知っているということです。神だけが満たせる空虚を、相手に満たしてもらおうとするのは、無理な要求なのです。


というわけで、「御霊に満たされる」という経験をしてようやく、一般的な結婚の問題に向き合うことができるようになります。私たちは夫であれ、妻であれ、自分のためでなく、他者のために生きるのです。そして、それこそが結婚し夫婦になる上で、最も難しく、しかし最も重要な唯一の目的であるとティモシーは言います。結婚生活で経験できる本当の幸せとは、自己犠牲的な奉仕の延長線上にあります。そしてその奉仕ができるようになるためには、聖霊の助けが必要です。つまり私たちが結婚生活で本当に幸せだ、と感じるためには、まず自分の幸せよりも相手の幸せを先に考え、またそうし続けることから始まるのです。そしてそれはただ、「自分のためにイエス・キリストが何をしたかを理解し、それに応答することによって」のみ可能なのです。これは結婚に限らず人間関係の中で私たちクリスチャンがいつも念頭におくべき聖書の原則ですが、ティモシーは御霊に満たされているクリスチャンの姿をうまく表現して次のように言っています。


それは聖霊に満たされて生み出される無私の姿勢、自分のことを後回しにするのでも、逆に優先させるのでもなく、自分中心に考えなくても良くなっている姿勢、なのです。(P90)

ティモシーによれば、「『激しい恋に落ちた』気分になるのは、だれかがとても魅力的に思えるのは、その相手が自分の必要を満たしてくれるから」ということですが、相手から「受けよう」とだけ考えていたのでは、喜びあふれる結婚生活にはなりません。私たちの本当の恋人、究極の相手の元に立ち帰り、御霊に満たされることこそ、結婚を育てる力なのです。



第3章「結婚の本質」



ティモシーケラーは本章で、「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」(エペソ5章31節、創世記2章24節)という聖句から「結婚の本質」を語ります。


聖書には随所に「契約」という概念が見られますが、結婚は独特で、二人の間に結ばれる、最も深い契約関係と言えます。エペソ5章31節でパウロは、創世記2章24節を丸ごと引用して、「契約」という概念を読者に思い起こさせています。


「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」

創世記2章にある、人類最初の結婚式です。新改訳聖書で「結ばれ」、英語聖書(NIV)で「united」とされる、この言葉はヘブル語の動詞の力強さを伝えています。接着剤で何かにくっつけることを意味しているこの「結ばれ」という言葉は他の箇所でも、結束力のある契約、宣誓によって人が結ばれることを意味しています。(申命記10:20、11:22、ヨシュア記22:5、23:8)


なぜ結婚が最も深い契約関係なのかというと、そこには「タテ」と「ヨコ」両方の関係が存在するからだ、とティモシーは言います。夫と妻との間の契約は神の前でなされるもので、配偶者との契約であると同時に、神との契約でもあるからです。だからこそ、伝統的なキリスト教結婚式では多くの場合、宣誓の言葉があり、新郎新婦は先ず、相手に向かって「約束します」と言わずに、まっすぐ前を向いて、厳密に言えば、その質問を問いかける司式者に向かって答えるのです。「ヨコ」を向いて宣誓する前に、「タテ」を向いて宣誓するのです。そして結婚式の誓約は現在の「愛情」ではなく、将来の愛について、相互に拘束力のある約束を宣言するもの、いわば自己犠牲という決断の証しなのだ、とティモシーはいいます。


本質的に結婚は相手のための犠牲的な献身だ、という聖書の結婚観は、現代の結婚観とはかなり対照的です。聖書は、基本的に愛は感情よりも行動を伴う、というからです。もちろん聖書が示す愛が、深い恋愛感情を否定するというわけではありません。お互いに対する情熱や喜びのない結婚には、聖書が示す愛があるとは言えません。しかし私たちが一番コントロールできるのは、「愛情」ではなくて、「行動」です。愛する行動こそは、私たちが毎日、守ると約束することができるものです。エペソ5章28節でパウロは、「夫は自分の妻を…愛さなければなりません」。パウロは既に25節で、自分の妻を愛するように強く命じていましたが、ここでは、もっとはっきりさせるために、義務を強調する動詞を使っています。パウロがいっていることについて疑いの余地はありません。パウロは命令しています。感情は命令して生まれるものではなく、命じることができるのは行動だけなのですから、パウロが命令しているのは行動なのです。結婚の本質は「本当の愛の契約」つまり、愛の行動をとり続けるという夫婦相互の約束です。ティモシーは本章で、この聖書の原則を聖書や自身の経験等を用いて説得力のある仕方で解説しています。



第4章「結婚の使命」



ティモシーは「結婚の使命」を「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5章25節~27節)から説明します。

結婚の使命、つまり「何のために結婚をするのか。」ティモシーはその答えを、結婚は友情である、という聖書の原則から解説します。


三位一体の神が交わりを持つように、神のかたちに似せてつくられた私たちは互いに関係を持つべき存在としてデザインされました。創世記1~2章では、世界を神が創造したとき、神はその結果をみて「よし」としたことが繰り返し表現されています。しかし、アダムが神に創造され、エデンの園におかれたとき、彼が「ひとりぼっち」でいるのは「よくなかった」のでした。私たち人間は神との「タテ」の関係性だけで満たされるのではなく、他の人間との「ヨコ」の関係を必要とする存在としてデザインされたのです。アダムがいくら完璧な園に暮らしていても、孤独は「よくなかった」のですから。アダムにとって、神に与えられた妻は、恋愛対象というだけではなく、心から探し求めていた友人でした。箴言2章17節では、結婚相手を、あなたの「アルフ」つまりヘブル語辞典が「特別な親友」「ベストフレンド」と定義する、非常に珍しい言葉で語っています。個人主義的な欧米社会では、恋愛やセックスの相性が何よりも重要とされる傾向がありますが、聖書は共同体に対する責任、個人の恋愛、のどちらも認めつつ、友情としての結婚を強調するのです。


「聖書の原則」… 結婚相手=親友

ところで結婚とは、何のためにするのでしょうか。それは将来、神が私たちを栄光に輝く姿に変える方向に向かって、つまり新しく創造されるプロセスにおいて、互いに助け合うためです。夫と妻が目の前に見る共通の目的地とは、神の子としての王位と、やがて手にする、聖い、しみも傷もない性質なのです。これ以上に強い共通の目的地があるでしょうか。そしてだからこそ、夫婦関係の中心にクリスチャンとしての友情をおくことが、ほかのどんな結婚の目的やビジョンにまさって、そのはるか地平線の先のような目的地へ向かっていく土台だと言えるのです。結婚という土台がしっかりとしていれば、問題や痛みで満ちたどんな状況も乗り越えることができるのです。(真の友というのは、「どんなときにも愛するもの」(箴言17章17節)、「苦しみ」の渦中においても愛するものです)


パウロは結婚の主な目的の一つは、私たちを「聖なるものとするため…しみや、しわや、そのようなものの何一つない」ものとするため、とエペソ5章26節~27節で言っています。つまり「御霊の実」(「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とガラテヤ5章22節~25節にある)と記されている、イエスの人となりが、私たちのうちに再現されていく、ということです。イエスの愛、知恵、そして素晴らしさが、それぞれに与えられたユニークな賜物と使命と共に、私たちのうちにかたちづくられるとき、私たちは「本当の私」、そうなるようにと、もともと私たちが創造された人格になるのです。そして、山あり谷ありの旅路に最適な仲間は、友人でもあり恋人でもある結婚相手なのです。


クリスチャンの夫婦はきっと、こんな風に言いたくなるでしょう。


「神様があなたをどんな人にしようとしているかが見えるし、これからどうなるのか考えると、とても楽しみだ。そのプロセスを見届けたいし、あなたが神様とその王座に向かっていく旅の仲間に自分もなりたい。そしてついに、完成した美しいあなたを見てこう言おうと思う。『やっぱり!今までずっと、いつかあなたはこうなると思っていた。地上ではその一部しか見えていなかったけれど、思った通りだった!』と」

クリスチャンが結婚するなら、相手の人生に、聖書の言葉(福音)を通して表される、イエスによる素晴らしい働きを見るはずです。夫婦は互いに、その働きのための手段として自分自身をささげ、いつか、全く汚れのない、美しさと栄光に満ちた互いを認めつつ、神の前に立つその日を、心に思い描くのです。結婚は私たちを聖くするためにあるのです。



第5章「『他人』を愛するということ」



ティモシーは、結婚という旅路において、互いに助け合えるようになるための具体的な方法とは何なのか、聖書の原則、ティモシーの経験、等から解説します。この本でティモシーはしつこいように「恋愛感情は続かない」ということを繰り返しています。ティモシーに言わせれば、「結婚した当初は、その原石に含まれる純金をみるが、だんだんと不純物がきになりだす」のだそうです。気にさわる相手の態度、性格、悪習慣が見えてくるというのです。しかし、それは神の栄光の光の中で、いずれ不純物として焼き尽くされようとしているものを見ているにすぎません。こうした欠点は永遠に存在するわけではないのです。「一時的な今の妻(夫)でしかない」と捉えるべきなのです。パウロは自分自身の内面にもある、この状態について語っています。「私は…自分が憎むことを行っている」「それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪」だと。(ローマ7章)だからと言って、パウロは自分の行動に対する全く責任を取らないわけではありませんが、罪深い行動は、自分にある「神の律法を喜んでいる」「内なる人」からきているのではないと知っている、と言うのです。


クリスチャン夫婦はそのように区別しなくてはいけない、とティモシーは言います。


「こういうことをする妻(夫)は、本当に嫌。でも、あれは本当の妻(夫)ではない。いつまでも、あのままではないはずだ。」

さらに、お互いの性格の何が不純物で、何が純金なのか話し合い、一致して「これこそ本当の私たちだ。神様が私たちをこう成長させたいと願っているけれど、現実、私たちの今の姿はこうだ。だとしたら、それを乗り越えるために、この現実に一緒に立ち向かおうよ」と言えるなら、さらに二人の関係を深める大きな助けになるでしょう。


究極的には、この宇宙全体を支配する神に愛されていることを知ることが、すべての人生の最強の土台です。キリストにある、私たちへの神の愛、それに少しづつ気づいていく、これほどの生きがいは他にありません。そして忘れてはならないのが、エデンの園のアダムです。彼は神との完全な関係を与えられていながら、人の愛を育む人間性といったものも与えられていました。結婚相手から、またキリストからの、私たちへの愛両方が、私たちの人生を相互に力強く働くのです。結婚の愛の力の中で私たちは癒されていきますが、実はそれは、イエスが私たちのうちに働かせる力の縮小版とも言えるものです。キリストにあって神は、私たちを正しく、きよい、美しいものとして認めます。(2コリント5章21節)この世は、私たちの過ちを指摘しすぎるほどですが、神の愛は私たちのその罪を覆い続けるのです。ですから、イエスは、誰がどんなことをあなたにいってきたとしても、それに打ち勝つ力を持っています。クリスチャンの結婚は、まさにそのキリストの愛の縮図なのです。相手があなたにイエスの愛を直接的に示すこともあるでしょう。あるいは、イエスのように、相手があなたを受容してくれるので、イエスの愛がもっと身近に感じられ、受け入れられるということもあります。ですから、ほかのどんな人間関係よりも、結婚にはすべての傷を癒す特別な力があり、私たちそれぞれの個性と価値を確信させてくれるのです。ティモシーは具体的に「愛する」「仕える」「赦す」スキルをこの章で紹介しています。



第6章「互いに喜び合う」



この章はティモシーの奥さんが執筆しました。


妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。…夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(エペソ5章22~23節、25節)

結婚関係において、男性が「かしら」であるとする聖書の教えはあらゆる文化の中で、女性を軽んじ、抑圧するような誤解を生み出してきました。しかし、聖書をきちんと読めば決してそんな事はない、とわかります。


神はアダムが一人でいるのを見たとき、「よくない」と言いました。神は全世界ではじめて、不十分なものを見つけました。そしてアダムの肉体からエバがつくられ、彼女を名付けたのはアダムでした。この要素が、のちに新約聖書で語られる「かしら」としての夫の説明の基礎になります。しかし、男性に権威が与えられているにも関わらず、女性は、それによって予想される「目下の者」として説明されるわけではありません。むしろ「彼にふさわしい助け手」(創世記2章18節)と呼ばれています。「助け手」という言葉は、ヘブルご「エゼル」の訳語としては、最適とは言えません。一般的に「助け手」は、そもそも一人でもほとんど任務をこなせる人を手伝う、という意味が含まれます。しかし「エゼル」は、聖書中、ほとんどと言っていいほど、神自身を表し、また、戦いの命運を握る救援部隊や増援を意味します。ですから、聖書はだれかを「助ける」とは、自分の力で相手の欠けを補う、ということになります。そういう意味で、女性は「強い助け手」として創造されたのでした。「ふさわしい」という言葉も、また適切な訳語とは言えません。むしろ、字義通りにいえば、いくつかの語句が合成され、「彼とは反対の」という意味合いの言葉になります。男の一部がとられ女が創造された、という創世記2章全体が強く示しているのは、男女は、お互いが無くては不完全だということです。男女は互いに「相反する」もので、それはピッタリと合うパズルのピースのようなものです。創世記3章には、男女と共に神に反抗し、エデンの園から追放されるという人間の堕落が描かれています。ここでまっさきに見られるのが、それまで見られた男女間の一致に訪れた悲惨な結果です。罪のなすり合いや、互いを指差し非難しあう空気が満ちています。互いの違いを補い合い、一致するというより、互いの違いで相手に圧力を与え、搾取しようとする姿勢です。その結果、女性は偶像礼拝的な恋慕を夫に持ち、男性は妻を愛し守るという行為を、自己中心的な欲望と搾取からするようになってしまったのです。


「かしら」としての夫、「助け手」として従う妻、聖書によれば、実はどちらも、しもべとして仕える働きです。結婚関係においては男女ともに、「イエスの役割」を果たすことができるのです。つまり、権威を犠牲にして仕えるイエス、自己を犠牲にして従うイエス、という2種類の役割です。この章で、ティモシーの奥さんは聖書から分かりやすく解説します。



第7章「結婚と独身」



独身者のための章です。ティモシーはシングルライフを送る上で、また、結婚について賢く祈り求めることについて、聖書の結婚理解を知ることがいかに大切か説明します。


すべての被造物を新生させる神の力、つまり神の国は、この古い世界にキリストが来られることで、もたらされましたが、まだ完成に至っていません。古い秩序はまだ残っていますが、残りの時間は定められ、終盤の段階にきているのです。まだ、社会的、物質的なこの世界は続いていて、私たちはその中に生きています。明日のことについても考える必要があります。一方で、神が約束している将来の世界に対する確信は、私たちがこの地上で関わるあらゆることに対する姿勢を大きく変えるのです。成功に喜びながらも、喜びすぎることなく、失敗に悲しみながらも、意気消沈することはないのです。私たちの将来に対する本当の喜びは、神によって保証されているからです。私たちは世の富を楽しんでも良いのですが、「用いすぎる」(1コリント7章)つまり、夢中になりすぎてはいけないのです。こう考えると、私たちの結婚や家庭に対する姿勢はどう変わるでしょうか。パウロは、既婚、独身、どちらもいい状態だと言います。つまり、結婚しているということを喜びすぎる、あるいは、独身でいることに失望しすぎるべきではないということです。キリストこそ私たちを本当に満足させることができる唯一の伴侶であり、神の家族こそが本当に私たちを喜ばせ、満たすことができるからです。イエスが「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と仰った通りです。


スタンレー・ハワーワスは、生き方の選択肢の一つとして独身をはじめて認めた宗教は、キリスト教ではないかと言います。キリスト教をはじめたイエスキリストと、その代表的な神学者、使徒パウロはどちらも生涯独身でした。完璧な人間でもあったイエスが独身だったのなら(ヘブル4章15節、1ペテロ2章22節)、独身の成人が、既婚者と比べて未完成、あるいは半人前だとは、もはや見なされません。1コリント7章でパウロが、独身は神から祝福されたよい状態だとするのは、実際多くの場合において、既婚よりも独身の方が有利だということです。


エペソ5章は、究極的には結婚は、セックスや社会的な安定、個人的な充足のためではないと言います。結婚はむしろ、主である神との一致、究極的な愛の関係が、人間的なレベルで反映するためにつくられたものなのです。将来現れる神の国のしるしであり、前味でもあります。このように、ティモシーは結婚をどれだけ高く評価しても、それは「最後から2番目」でしかない、と聖書から確認した上で、「結婚の利点」と独身者への具体的なアドバイスを述べることでこの章を閉じています。



第8章「セックスと結婚」



ティモシーは、なぜ聖書がセックスを夫婦間のみに限定しているのか、また、その聖書の見解を採用するのなら、独身、既婚どちらにおいても、どのような行動となってあらわれるかについて考察します。


「セックスは単なる欲求だ」という見方、「セックスは汚い」という見方、「セックスは個人的な問題だ」という見方、いずれも間違っているとティモシーは聖書の原則を説明します。聖書的性倫理を要約するならば「セックスは結婚した夫婦間でのみ用いられるためのものである」と言えるのです。


ノンクリスチャンの中には、クリスチャンは「セックスを人の品位を落とす汚れた行為だ」と考えていると勘違いしている人もいるでしょう。が、それは全くの誤りです。聖書には優れた愛を歌があり、性的な情熱や喜びを祝う歌を歌います。もしもセックスがそれ自体悪だとか、汚れているという人がいたら、私たちは聖書をもって、それに反論できるのです。神は、夫婦間でのセックスを強く命じるのです。(Ⅰコリント7章3節~5節)箴言では夫たちに、その妻の乳房で喜びに満たされて、性愛に酔いしれることをむしろ推奨しています。(箴言5章19節。申命記24章5節)とりわけ雅歌は、こうした結婚における性愛の楽しみを露骨に表現しています。聖書は、性に厳しい人たちには目のやり場に困るような本なのです。1コリント6章7節以下で、パウロはクリスチャンが売春婦とセックスをすることを禁じています。セックスすることで「一つのからだ」になるからです。(1コリント6章15節)「一つのからだ」とは「一つの人格」になることです。人生のすべてのレベルで、男女が人格的に結び合わされるということです。だからパウロは、セックスが本来反映するはずの人格的な一致なしに、ただ肉体的にだけ一体となろうとする凄まじさを酷評しているのです。自分の人生全てを懸けて関わるつもりのない人に、肉体的にだけ関わることは、明らかに間違っている、と聖書は主張します。CSルイスは、結婚という契約のないセックスを、飲み込みも消化もせずに食べ物を味わうことに例えましたが、まさに言い得ています。

1コリント7章3節~5節は、夫婦はどちらも、セックスの喜びを得ようとする以上に、与えようとすることに最大限心を注ぐべきだと教えます。聖書の示すセックスの最大の喜びは、「相手の喜びを目にする」という喜びであるべきなのです。


そして、一人の男性と一人の女性とのセックスは父と子の間の愛を指し示します。(1コリント11章3節)それは、三位一体の神のいのちそのものの中にある、喜びに満ちた自己犠牲と、愛の楽しみの反映とも言えます。また、セックスが栄光に満ちているのは、三位一体の喜びを反映しているからだけでなく、天の国において得られる、永遠の喜びを指しているからでもあります。ローマ7章1節以下では、最高の結婚は、私たちが愛するキリストと、深く、無限に満たされる、最終的な一致を指し示していると言われています。よく、男女のセックスは、自分の体から抜け出るような体験だと言われますが、もっともです。それは、息をのむようで、大胆不敵で、想像すらつかないような姿、つまり、私たちの将来そのものだからです。


以上ティモシーの「結婚の意味ーわかりあえない2人のためにー」のブックレポートでしたー。



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